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数ではなく「戦争を続ける仕組み」が勝敗を分けた――新政府軍が戊辰戦争に勝利した理由

錦旗の下で洋式銃隊と補給部隊が連携する戊辰戦争の新政府軍。

数ではなく「戦争を続ける仕組み」が勝敗を分けた――新政府軍が戊辰戦争に勝利した理由

戊辰戦争で新政府軍が勝てた最大の理由は、最新兵器を多く持っていたからだけではありません。天皇の名による政治的正統性、薩摩・長州などの軍事連携、戦費と物資を集める仕組みが結びつき、局地戦の勝利を全国規模の優位へ変えられたことが決定的でした。

旧幕府側にも近代的な部隊や強力な海軍があり、長岡藩や庄内藩のように善戦した勢力もあります。それでも戦争全体では、指揮と政治判断を統一できず、敗北や離反を埋め合わせられませんでした。

この記事のポイント

  • 鳥羽・伏見では兵力で劣る新政府側が勝ち、政治的な主導権を握った
  • 錦旗は単なる象徴ではなく、諸藩の参戦判断を変える政治装置として働いた
  • 洋式銃や砲の性能差以上に、訓練・補給・部隊運用の組み合わせが重要だった
  • 新政府の財政も苦しかったが、紙幣発行や御用金によって戦争を継続した
目次

戊辰戦争は何を決めた戦争だったのか

戊辰戦争は、徳川家を倒すだけでなく、誰が朝廷の名で全国に命令を出すのかを決めた内戦でした。

慶応3年(1867年)、徳川慶喜は大政奉還を行いました。しかし、これだけで徳川家の政治力が消えたわけではありません。広大な領地、幕臣団、陸海軍、諸藩との関係を持つ徳川家は、なお新体制の有力な担い手になり得ました。

これに対し、薩摩藩や長州藩を中心とする勢力は王政復古を進め、慶喜に辞官と領地返上を求めます。政治交渉で決着しなかった対立は、慶応4年(1868年)1月、京都南郊の鳥羽・伏見で武力衝突へ発展しました。

その後の主な流れは次の通りです。

  • 1868年1月:鳥羽・伏見の戦いで新政府軍が勝利
  • 同年4月:江戸城が開城
  • 同年5月:上野戦争
  • 同年春から秋:北越・東北で戦闘が拡大
  • 同年9月:会津藩が降伏
  • 1869年5月:箱館の旧幕府軍が降伏し、戦争が終結

国立公文書館の解説が示す通り、戦争は鳥羽・伏見から箱館まで約1年半続きました。短期間で終わった政変ではなく、関東、北越、東北、北海道へ戦線が移動した全国規模の内戦です。

最初の転換点――鳥羽・伏見で何が変わったのか

鳥羽・伏見の勝利が重要だったのは、敵兵を減らしたことより、どちらが「官軍」なのかを全国に示したことです。

鹿児島県の解説では、旧幕府軍約1万5,000人に対し、薩摩兵約3,000人、長州兵約1,500人とされています。兵力の推計には資料による幅がありますが、新政府側が数で劣っていた点は動きません。

それでも旧幕府軍は、兵力を一度に有効投入できませんでした。部隊は幕府陸軍、会津藩、桑名藩など複数の指揮系統に分かれ、戦争目的にも温度差がありました。一方、薩摩・長州側は京都防衛という明確な目的を共有し、要地に兵を配置していました。

錦旗が変えたのは戦場より諸藩の判断だった

戦闘中、新政府軍には朝廷から錦旗が与えられました。これにより新政府側は官軍となり、反対側は朝敵と位置づけられます。

錦旗そのものが銃弾を防いだわけではありません。その効果は、戦場の外に及びました。

  • 新政府に付くか旧幕府に付くか迷っていた藩が、官軍への協力を選びやすくなった
  • 旧幕府側にいた藩も、朝敵とされる危険を考えて離脱・恭順へ動いた
  • 新政府が諸藩に兵員、資金、輸送、宿営を命じる根拠になった
  • 旧幕府軍では「何のために戦うのか」という共通目標が揺らいだ

たとえば津藩は戦いの途中で新政府側へ転じ、淀藩は敗走する旧幕府軍の入城を認めませんでした。これは一つの軍が敗れたという以上の変化です。旧幕府側の進路、補給、休息場所が失われ、政治的孤立が軍事的敗北を加速させました。

さらに徳川慶喜が大坂城を離れて江戸へ退いたことで、旧幕府軍は最高指導者と明確な戦争方針を失います。初戦の敗北を立て直す前に、組織そのものが崩れ始めたのです。

ここがポイント: 鳥羽・伏見の勝敗は兵力だけでは説明できません。新政府軍は戦場での勝利を「官軍」という政治的優位に変え、その優位を諸藩の参加、旧幕府側からの離反、補給路の確保へ連鎖させました。

兵器の差は本当に決定的だったのか

新政府側の強みは「最新兵器を独占したこと」ではなく、比較的統一された訓練と指揮の下で洋式兵器を運用したことにありました。

幕末には開港地を通じて各種の洋式銃が輸入されていました。神奈川県立歴史博物館は、後装式のスナイドル銃が横浜の外国商人らによって大量に輸入され、戊辰戦争で最新式小火器として使われたと解説しています。

薩摩・長州・佐賀などは開戦前から軍制改革を進め、洋式銃隊や砲兵を整えていました。長州藩では身分を武士に限定しない諸隊が組織され、集団射撃、散開、地形利用といった歩兵中心の戦い方が蓄積されていました。薩摩藩にも薩英戦争などを通じて西洋軍事技術の威力を知り、装備と編制を改めた経験がありました。

「新政府軍は近代的、旧幕府軍は旧式」という説明の限界

ただし、両軍を単純に「近代対旧式」と分けるのは正確ではありません。

旧幕府はフランス式軍制を導入し、伝習隊などの洋式部隊を育成していました。幕府海軍も有力な艦船と訓練された人材を抱えており、装備や技術の一部では諸藩を上回っていました。会津藩、長岡藩、庄内藩なども洋式銃を使用しています。

差を生んだのは、次の組み合わせでした。

  • 装備の性能:後装銃は前装銃より装填が速く、姿勢を大きく崩さず射撃できる
  • 装備の統一度:銃種がそろえば弾薬補給と教育を簡素化できる
  • 訓練:個人の武勇ではなく、部隊単位の射撃と前進・後退を反復できる
  • 砲兵との連携:歩兵だけでなく、砲撃によって陣地や進路を崩す
  • 兵站:弾薬、食料、医療、輸送を戦線へ継続して送る

つまり、銃の新旧だけを数えても勝因には届きません。性能の高い銃があっても、弾薬が合わず、補充兵が扱えず、指揮命令が届かなければ部隊としての力は落ちます。

財政難の新政府はどう戦争を続けたのか

新政府は財政的に豊かだったのではなく、信用の乏しい状態で将来の収入を先取りし、諸藩や商人にも負担を求めて戦費をつなぎました。

発足直後の新政府には、近代国家のような安定した全国税制がありません。各地の年貢や領地収入は基本的に各藩の管理下にあり、中央政府が自由に使える財源は限られていました。

そこで新政府は、豪商などからの御用金、諸藩からの負担、占領地域の収入に加え、太政官札を発行します。財務省の資料によれば、太政官札は当初、殖産資金としての目的を持っていましたが、資金繰りが窮屈になると財政赤字の補填にも発行が広がりました。別の財務省資料も、幕府征討費の財源難が発行の背景にあったと説明しています。

太政官札は「無限の軍資金」ではなかった

紙幣は印刷すれば直ちに安定した購買力を持つわけではありません。新政府の存続自体が確実でない時期には信用されにくく、正貨に対して値下がりする問題も起きました。

それでも太政官札には、戦争遂行上の意味がありました。

  • 手元の金銀だけに支出を制限されず、当面の資金を作れる
  • 新政府の支配地域で共通の支払い手段を広げられる
  • 商人や地域社会から物資を調達し、支払いを将来へ繰り延べられる

これは財政上の「強さ」というより、危険を伴う資金調達です。戦費のために積み上がった紙幣と債務は、戦後の通貨・財政制度に重い課題を残しました。

新政府側の勝利は、財源が潤沢だったからではありません。軍事的な優勢を政府の信用へ変え、その信用で次の戦費を調達する循環を維持できたことに意味があります。鳥羽・伏見で敗れていれば、太政官札も諸藩への命令も、同じ効力を持ち得なかったでしょう。

薩長だけでは勝てない――政治連携が兵力を増やした

戦争が東日本へ広がるほど、勝敗を左右したのは薩摩・長州の自力より、新政府側へ参加する藩を増やす能力でした。

新政府軍は薩摩、長州だけで構成された軍ではありません。土佐、佐賀、大垣、福井、広島など、多数の藩兵が各方面で行動しました。皇族を東征大総督や鎮撫総督に据えたことも、藩を超えた軍事行動に朝廷の命令という形を与えるためでした。

この連携には不統一や対立もありました。新政府はまだ完成した中央政府ではなく、実際の兵力、財政、指揮官は各藩に依存しています。それでも、少なくとも「新政府の命令で行動する」という枠組みを作り、東海道、東山道、北陸道など複数の進路で軍を動かしました。

一方、奥羽越列藩同盟は奥羽諸藩と北越の諸藩が連携した大きな勢力でしたが、戦争目的は一様ではありませんでした。

  • 会津・庄内への処分を回避したい藩
  • 新政府の強硬な措置に反発した藩
  • 地域秩序を守りたい藩
  • 本格抗戦より仲介や停戦を望む藩

この違いは、新政府軍が攻勢を強めたときに表面化します。同盟としての統一指揮、兵站、財政、外交方針を十分に確立できないまま、各藩が自領防衛を優先せざるを得なかったからです。

旧幕府側の善戦が示す反証

長岡・庄内・箱館での戦いは、旧幕府側が兵器や戦闘能力で全面的に劣っていたわけではないことを示します。

長岡藩――一度は城を奪還した

河井継之助が率いた長岡藩は、洋式兵器を整備して北越戦争で新政府軍を苦しめました。長岡城は新政府軍に占領された後、同盟軍によって一度奪還されています。

しかし新政府軍は兵力を追加し、海路からも進出して新潟を押さえました。長岡藩の戦術的な反撃は強力でも、長期戦に必要な人員、物資、支援地域の広さでは不利でした。上越市公文書センターの年表では、1868年7月29日に長岡が再び落城し、同日に新政府軍が新潟町を占領した経過を確認できます。

庄内藩――勝ち続けても戦争には勝てなかった

庄内藩も領内外の戦闘でたびたび勝利しました。しかし、会津など同盟側の主要拠点が崩れれば、庄内藩だけが戦闘を続けても政治的な目標を達成できません。

個々の戦場で勝つことと、同盟全体が戦争目的を実現することは別です。庄内藩の事例は、戊辰戦争の勝敗が単純な撃ち合いの合計ではなかったことをよく示しています。

箱館――海軍力だけでは逆転できなかった

榎本武揚らが率いる旧幕府艦隊は、江戸を脱出して蝦夷地へ渡りました。しかし旗艦開陽丸を失い、海上優位は弱まります。旧幕府軍は宮古湾で新政府軍の甲鉄を奪おうとしましたが失敗しました。

船の科学館の解説によれば、この作戦は劣勢を挽回するため、新政府艦隊の主力艦を接舷攻撃で奪取しようとしたものでした。作戦の失敗後、新政府軍は海上輸送と艦砲支援を生かして箱館へ進攻します。

ここでも、優れた人材や一部の艦艇を持つことと、損失を補充しながら戦争を続けることの差が表れました。

三つの勝因はどう結びついたのか

兵器、財政、政治は独立した勝因ではなく、互いを強める循環として働きました。

因果関係を整理すると、次のようになります。

  1. 薩長を中心とする部隊が、鳥羽・伏見で初戦を制する
  2. 錦旗と朝廷の命令により、新政府側が官軍として認識される
  3. 諸藩の恭順・参戦が進み、兵員と補給路が増える
  4. 江戸城開城によって関東の政治・経済拠点を大規模な市街戦なしで確保する
  5. 御用金や太政官札などで、北越・東北への遠征費をつなぐ
  6. 複数方面から圧力をかけ、抵抗する藩を地域ごとに孤立させる
  7. 支配地域と信用の拡大が、さらに資金・兵員・物資の調達を容易にする

この循環に対し、旧幕府側では逆の連鎖が起きました。初戦の敗北、徳川慶喜の退去、諸藩の離反、拠点の喪失、財源と補給の縮小が互いを強めたのです。

したがって、「新政府軍は新式銃を持っていたから勝った」という説明では不十分です。兵器は重要でしたが、その兵器を持つ部隊を増やし、遠方へ送り、弾薬と食料を補給し、戦死傷者や損失を埋める政治・財政の仕組みがなければ、全国戦争の勝利にはつながりません。

勝利の代償と明治国家への影響

戊辰戦争の勝利は中央集権化を可能にしましたが、戦時に生まれた負担と対立を消したわけではありません。

戦後、新政府は版籍奉還、廃藩置県、徴兵制、地租改正などを進めます。戊辰戦争中に諸藩へ命令し、複数地域へ軍を送った経験は、軍事権と財政権を中央へ集める必要性を明確にしました。

一方で、次の問題が残りました。

  • 戦費調達で発行された紙幣と債務の整理
  • 戦った藩兵や諸隊の解散、処遇
  • 敗者となった地域への処分と社会的負担
  • 新政府内での権力・恩賞配分
  • 藩ごとに異なる軍隊、税、通貨制度の統合

戦争では官軍を構成した薩摩の士族が、約9年後の西南戦争では新政府と戦います。戊辰戦争で作られた連合は、そのまま恒久的な政治的一体性になったわけではありません。

戊辰戦争から読み取れる教訓

内戦の勝敗は、最も強い部隊を持つ側ではなく、勝利を政治的支持と継戦能力へ変えられる側に傾きます。

戊辰戦争から読み取れる点は、次の三つです。

  • 正統性は実務的な戦力になる:命令への服従、同盟参加、徴発、補給の可否を変える
  • 技術は組織と切り離せない:新式兵器の性能は、訓練、弾薬、整備、指揮がそろって初めて生きる
  • 財政力は保有資金だけでは測れない:信用を作り、将来の収入を動員して戦争を継続できるかが重要になる

ただし、新政府の勝利を近代化の必然として描くべきではありません。鳥羽・伏見の結果、徳川慶喜の判断、江戸城開城、東北諸藩との交渉決裂など、異なる展開になり得た分岐がいくつもありました。

最も注目すべきなのは、新政府が最初から強固な国家だったのではなく、戦いながら命令、徴発、資金調達、諸藩動員の仕組みを国家の形へ変えていったことです。その仕組みが勝利を生み、勝利がさらに仕組みを強める。この循環こそ、戊辰戦争の帰趨を理解する鍵になります。

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