「すべての人は平等」の境界線――アメリカ独立革命が生んだ自由と排除
アメリカ独立革命は、自由を否定した革命ではなく、自由の担い手を限定した革命だった。植民地の人びとは国王と議会の支配を退け、共和政と権利の原理を築いた一方、奴隷制を存続させ、先住民の土地を新国家の拡大先として扱った。
ただし、矛盾だけを理由に革命の理念を空虚だったと片づけるのも正確ではない。「すべての人は平等」という言葉は、黒人や女性など、それまで政治共同体の外に置かれた人びとが権利を要求する武器にもなったからだ。
この記事のポイント
- 独立派が求めた自由の中心は、まずイギリス帝国内の植民者による自治だった
- 革命は北部の漸進的奴隷制廃止を促したが、南部の奴隷制を解体しなかった
- 先住民にとって独立は、自治の獲得より入植圧力の加速を意味した
- 革命の理念と制度の食い違いは、その後の廃奴運動や権利運動の争点になった
独立派が求めた「自由」は何だったのか
革命当初の自由とは、すべての住民を個人として解放する計画ではなく、植民地社会が自らを統治する権利だった。
七年戦争が1763年に終わると、イギリス政府は戦費と帝国防衛費を負担するため、北米植民地への課税と統制を強めた。植民地側は印紙法やタウンゼンド諸法に反発し、「代表なくして課税なし」という論理を発展させていく。
争点は税率の高さだけではない。ロンドンの議会が、植民地側の同意なしに課税・通商・行政を決められるのか。それとも植民地の代表機関が住民の財産と法を管理するのか。ここに主権をめぐる対立があった。
1775年に戦闘が始まると、大陸会議は軍隊、通貨、郵便制度を整え、事実上の政府へ変わった。1776年7月4日に採択された独立宣言は、国王による「長期にわたる権利侵害」を列挙し、植民地が自由で独立した諸州になる権利を主張した。米国国立公文書記録管理院の解説が示すように、宣言は植民地住民だけでなく、イギリス国王や外国の潜在的同盟国にも革命の正当性を訴える文書だった。
つまり、独立宣言の普遍的な言葉と、革命勢力が直面していた具体的な目的には差がある。
- 原理:人は平等に創造され、奪うことのできない権利を持つ
- 政治目標:13植民地をイギリスから分離し、独立国家として承認させる
- 当時の実態:政治参加の中心は白人男性で、奴隷・先住民・女性の権利は平等に保障されなかった
この差が、革命の可能性と限界を同時に生んだ。
奴隷制との矛盾は、なぜ解消されなかったのか
奴隷制が残った最大の理由は、道徳的矛盾が認識されていなかったからではなく、財産・労働・州間連合の問題が廃止を阻んだからだ。
独立前の13植民地では、南北を問わず奴隷制が法的に存在した。とりわけ南部では、タバコや米などの商品作物を生産する農園経済と奴隷労働が深く結びつき、奴隷は労働力であると同時に売買・相続・担保の対象となる財産だった。
奴隷制を直ちに廃止すれば、奴隷所有者の資産、州政府の政治基盤、南部諸州の独立戦争への協力が揺らぐ。独立派の指導者はイギリスと戦うための結束を優先し、この対立を先送りした。
削除されたジェファソン草案
トマス・ジェファソンが作成した独立宣言の草案には、国王が奴隷貿易を押しつけたと非難する一節があった。しかし大陸会議の審議で削除された。
この草案は奴隷制批判を含んでいたものの、責任を国王へ集中させ、植民地の奴隷所有者や商人が制度を維持してきた責任を十分に扱ってはいない。さらに、ジェファソン自身も多数の人を奴隷として所有していた。
削除の経緯は、革命勢力内部に奴隷制への疑問が存在したことと、それを独立の共通綱領にできなかったことの両方を示す。米国議会図書館の資料は、当時の指導者の多くが奴隷制の段階的な消滅を想定しながら、即時廃止には踏み込まなかった事情を紹介している。
黒人は革命の受け手ではなく行為者だった
自由の範囲は、白人指導者だけが決めたわけではない。奴隷状態に置かれた人びとは、逃亡、軍務、請願、訴訟によって革命の言葉を自分たちの解放へ結びつけた。
1775年、ヴァージニア植民地総督ダンモア卿は、反乱側の主人から逃れてイギリス軍に参加する奴隷に自由を約束した。対象はすべての奴隷ではなく、反乱を抑えるための軍事政策だった。それでも、自由を求める人びとに現実の選択肢を示したため、多くの黒人がイギリス側へ向かった。一方、大陸軍や各地の民兵で戦った黒人もいた。
ここで重要なのは、黒人の参加を「愛国派か王党派か」という忠誠心だけで分類できないことだ。どちらの陣営が自由への道を開くかは、居住地、主人の立場、軍の方針、逃亡可能性によって異なった。彼らは限られた条件のなかで、自分や家族の自由につながる側を選ぼうとしたのである。
革命は廃止への扉も開いた
革命期の権利思想は、奴隷制を守る論理だけでなく、廃止を求める論理も強めた。
- ペンシルベニアは1780年に漸進的奴隷制廃止法を制定した。ただし施行後に生まれた奴隷の子も28歳まで拘束され、既に奴隷だった人が一斉に解放されたわけではない
- マサチューセッツでは、奴隷当事者の訴訟、請願、黒人兵の軍務、1780年州憲法の平等原則が重なり、1783年の一連の判決によって奴隷制が法的に維持できなくなった
- 奴隷制廃止が進んだ地域でも、差別、誘拐、選挙権の制限、長期の年季奉公は残った
したがって、革命が奴隷制を廃止したとはいえない。しかし、革命の言葉が廃止を求める訴訟や立法に使われたことも否定できない。
ここがポイント: 独立革命は、黒人に自由を一括して与えたのではない。黒人自身が革命の平等原則を利用し、逃亡・軍務・請願・裁判を通じて、その適用範囲を押し広げた。
先住民にとっての独立は「土地をめぐる革命」だった
先住民社会から見ると、最大の転換点は国王からの解放ではなく、植民者の西方進出を抑えていた帝国の境界が崩れたことだった。
1763年、イギリスはアパラチア山脈以西への植民者の入植を制限する国王布告を出した。目的は先住民の主権を無条件に尊重することではなく、辺境での戦争と防衛費を抑え、植民地を管理しやすくすることにあった。
それでも、土地投機家や西方移住を望む植民者には大きな障害だった。独立運動には課税・代表・自治をめぐる対立だけでなく、誰が西部の土地を支配し、分配できるのかという争いも組み込まれていた。
先住民諸国は一枚岩ではなかった
「先住民がイギリス側についた」と単純化することはできない。各国・各共同体は、植民者、イギリス、周辺の先住民勢力との関係を見ながら、それぞれの生存戦略を選んだ。
ハウデノサウニー(イロコイ連邦)では、モホーク、セネカ、カユーガ、オノンダガの多くがイギリス側に立ち、オナイダとタスカローラの多くはアメリカ側を支援した。革命は連邦内部を分裂させ、集落の破壊、避難、飢え、領土喪失をもたらした。
イギリスとの協力も、国王への無条件の忠誠とは限らない。西方への入植圧力が強い植民者に対し、距離のあるイギリス帝国を当面の防壁として利用する判断があった。反対にアメリカ側へ協力した共同体も、戦後の土地の安全を保証されたわけではなかった。
1783年の講和で当事者が外された
パリ条約によってアメリカ独立戦争が終わると、イギリスはミシシッピ川までの広大な領域をアメリカ合衆国に認めた。しかし、その土地に暮らす先住民諸国は講和交渉の当事者として扱われず、領土を譲渡することにも同意していなかった。
スミソニアン国立アメリカ・インディアン博物館のハウデノサウニーに関する教材は、戦争で両陣営を支えたハウデノサウニーがパリ条約から除外され、イギリスが彼らの土地をアメリカへ渡したと説明する。
独立によって主権を獲得したのは、先住民諸国を含む北米の全住民ではなかった。新国家は、ヨーロッパ諸国から自国の主権を承認される一方で、先住民諸国の主権を対等には扱わなかったのである。
革命後の制度は矛盾をどう固定したのか
1787年の制度設計は自由の共和国を安定させたが、その安定のために奴隷制と領土拡大を組み込んだ。
連合規約のもとでは、中央政府は課税や通商統制を十分に行えず、州間の対立にも対応しにくかった。憲法制定会議は強い連邦政府をつくったが、奴隷制をめぐる州間対立を解決せず、妥協によって連合を成立させた。
憲法が与えた保護
合衆国憲法は「奴隷」という語を避けながら、制度を具体的に保護した。
- 議席配分と直接税では、奴隷人口の5分の3を算入した。奴隷本人に参政権はなく、その人数が奴隷州の政治力を増やした
- 連邦議会が奴隷輸入を禁止することを1808年まで制限した
- 奴隷州から逃れた「労務に服する者」の返還を定めた
1790年の国勢調査では、約69万7,000人が奴隷として数えられた。国立公文書記録管理院の憲法制定史が説明するように、奴隷制をめぐる妥協は連邦成立の条件になった。ただし、その政治的必要性を説明することと、人を財産として拘束した制度を正当化することは別である。
北西部条例に現れた二重構造
同じ1787年に制定された北西部条例は、オハイオ川北西の領域で新州を設ける手続き、信教の自由、陪審裁判などを定め、奴隷制を原則として禁じた。一方、逃亡した奴隷の返還条項も置いた。
さらに条例は、先住民に「最大限の誠意」を示し、同意なく土地を奪わないと宣言した。しかし、新国家は先住民の土地を連邦領土として測量し、販売し、入植者の州へ変える構想を進めていた。権利保障、自由州の形成、先住民領の編入が、同じ制度の中に並んでいたのである。
「自由の革命だったか」への答え
答えは、誰の自由を、どの時点で問うかによって分かれる。 ただし、視点を混ぜずに整理すれば評価は明確になる。
白人植民者の政治的自由という点では革命だった
独立は世襲君主への忠誠を断ち、成文憲法、共和政、選挙、権力分立を軸とする政治秩序を形成した。参政権には財産・人種・性別による制限があったものの、統治の正当性を人民の同意に求める原理は重要な転換だった。
奴隷状態の人びとの全面的解放ではなかった
一部の黒人は軍務、逃亡、訴訟、個別解放によって自由を得た。北部では漸進的廃止が始まった。しかし南部の奴隷制は存続し、憲法上の保護を得た。独立は奴隷制廃止革命ではない。
先住民諸国の自治を保障する革命でもなかった
先住民にとって、戦争は外交相手がイギリス帝国から入植者国家へ置き換わる転換だった。アメリカの勝利は西方への領土拡大を可能にし、多くの共同体に土地の割譲、移住、戦争を迫った。
この三つを踏まえると、アメリカ独立革命は普遍的自由を宣言しながら、自由を人種・法的身分・土地所有によって配分した革命と位置づけられる。
矛盾した理念は無意味だったのか
理念と現実が食い違っていたからこそ、その言葉は後世の異議申し立てに利用できた。
独立宣言は、それ自体で奴隷を解放せず、先住民の土地を守らなかった。しかも宣言本文には、国王が植民地の辺境住民に対して「容赦なきインディアン」をけしかけたという敵対的な表現が含まれる。平等の原理と先住民への偏見は、一つの文書の中に共存していた。
それでも「すべての人は平等」「奪うことのできない権利」という命題は、支配する側だけの所有物にはならなかった。黒人の請願者、奴隷制廃止運動家、女性参政権運動家、公民権運動家は、建国の言葉を引用し、誰が「人民」に含まれるのかを問い直した。
ここから得られる教訓は、「建国者は本心では全員の自由を意図していた」と善意を推測することではない。反対に、矛盾があったから理念は偽りだったと切り捨てることでもない。
見るべきなのは、次の三点だ。
- 権利を宣言した主体は、その権利を誰に適用したのか
- 制度は理念を実行したのか、それとも例外を固定したのか
- 排除された人びとは、理念をどのように自分たちの要求へ変えたのか
アメリカ独立革命の核心は、自由が完成したことではない。自由を掲げる国家が、誰を自由な人間として数えるのかという未解決の争いを始めたことにある。その後の歴史を読むときは、宣言の美しい一文だけでなく、1790年に奴隷として数えられた約69万7,000人と、講和の席から外された先住民諸国を同じ視野に置く必要がある。
